つくられた桂離宮神話5

桂離宮は、まずモダニズムが勃興していくなかでその名を高めだした。そして、日本文化論の延長上に位置づけられることにより、名声は確固たるものとなっていく。
(略)
興味深いことに、それらはみな簡素な造形の強調という一点で一致していた。モダニズム、日本文化論、戦時体制、どれをとっても、豪華な意匠を肯定するものはない。いずれも、簡素美をこそ第一としていたのである。
桂離宮が簡素な日本美の象徴とされるにいたったのは、いわばとうぜんのことであった。簡素美をめざすさまざまな潮流の結節点。そこに、桂離宮はおかれていたのである。ほかの評価はありえなかった。

現在、桂離宮を誉める論調も、この延長線にある。
桂離宮は、簡素だが美しい直線で構成された…みたいな奴である。

タウト以後の桂離宮論は、もっぱらその簡素美を強調する。しかし、それ以前はそうではない。
技巧的な桂離宮というイメージも、じゅうぶんありえた。

桂離宮ブルーノ・タウトが発見したわけではない。
当然モダニズム以前にも評価されていたわけだ。

さて、桂離宮の新御殿には、たいへん複雑な構成の棚がもうけられている。世に桂棚と称される棚である。つぎに、この桂棚についての批評文を検討していきたい。
モダニズム以前の観賞者たちは、しばしばこの桂棚を高く評価した。
あるいは、桂棚こそが桂離宮を代表する意匠だと考えていた。
たとえば、明治期の芸術史家で伊東忠太の師にあたる小杉榲邨なども、そうした鑑賞者のひとりである。
また一九二八(昭和三)年には、巌谷小波がこう書いていた。

書院の結構の如きも、所謂建築家の手本と成るべき、妙所は至る所に見えるのであるが、殊に余の感嘆したのは、彼の御幸殿の一の間にある、所謂桂棚なるもの、意匠の巧を極めた事だ、否、此他にも棚の工夫には、一として感服せぬは無い。

つまり、モダニズム以前は桂離宮は技巧をこらした建物として評価されていたのか。

こうした批評は、しかしタウト以後になれば影をひそめるようになる。
庭園史の森蘊は、桂棚のある新御殿に「装飾過多の感じが深い」ことをなげいた。せっかく、桂離宮には簡素美がみなぎっているのに、この部分の過剰装飾がざんねんだというのである。
(略)

ところが、モダニズム以後は、技巧は駄目だと。

面白いなぁ。同じものなのに、評価規準で評価が反転するなんて。


私も、物を観るのにバイアスを掛けているんだろうなぁ。

古びた茶碗を「美しい」と見るか「汚い」と見るか。

実際、私は雨漏茶碗を「汚い」としか思わないしな…。