つくられた桂離宮神話6

いまいちど、モダニズム以前の桂離宮論に注目してみたい。
(略)
この点について、堀口捨己はつぎのようにのべている。

桂離宮は、茶人仲間では昔からやかましいもので神話的な存在ですね……私のうちなんか茶をやる方の側で、桂離宮を賞める雰囲気があり、その中で僕は育っているのです。

もちろん、桂離宮を高く評価していたのは茶人だけではない。

そう言えば、桂離宮には「真の飛石」がある。
あれが茶人に評価されはじめた時期はいつなのか?

しかし、なんといっても、これを高く買っていたのは庭園関係者であった。それは、「明治から昭和初年にかけて」の研究状況を見ればよくわかる。
桂離宮の研究にとりくんでいたのは「専ら庭園史家」だったのである。

当然、庭園研究家も、「真の飛石」とかを研究する。

明治・大正期の桂離宮評価は、個別分野内でのそれにとどまっていた。庭園関係者が評価する。茶人たちが評価する。そして、そうした評価のそれぞれを、庭園関係者や茶人たちがうけとめる。その範囲をこえなかった。
分野の外にいるものにたいしては、評価の言葉はとどかなかった。彼らにしても、分野の外にまで説得の手をのばそうとは思わなかっただろうし、また、個別分野の枠をこえるための媒介もなかったのである。

例えば「真の飛石」がどういうもので、どうすばらしいのか…こんなの茶人と庭園研究家との間でしか議論になるまい。

この点で、モダニストたちのキャンペーンは画期的であった。
当時のモダニストたちはモダニズムの普及をもくろんでいる。多くのひとびとの承認をも必要としていた。
(略)
もちろん、モダニズムの建築理念そのものは建築という個別分野に属するものである。そのままのかたちでは、他分野に流通するというわけにはいかないだろう。
しかし、日本文化論のレトリックをつかえば流出は可能である。

モダニズム推進者達は、自分たちのバイアスで桂離宮を見、褒め、宣伝した。

その見方は、茶人とも、庭園研究家とも違うものだった。
例えば、茶人の喜びそうな桂棚などは、評価が低くなる…そんな評価軸だった。

て、ことは、茶人はモダニズム視点での桂離宮もてはやしに甘んじてちゃいけないんじゃないかいな?

現代の我々は、先入観を捨て、茶人の眼で桂離宮を再評価しないといけないんじゃなかろうか?