つくられた桂離宮神話7

戦後の話。

昭和初期のモダニズムは、保守的な様式主義からの批判にさらされていた。
(略)
だが、一九六〇(昭和三五)年前後になると状況はかわってくる。
このころには、様式主義の古めかしいデザインは昔日の力をなくしていた。
モダニズムの台頭をおさえることはできなくなっていた。
じじつ、戦後には、直方体の箱のようなビルがどんどん建設されている。

戦後、モダニズムは主流派となった。もう、様式主義と戦う必要もなくなったわけだ。

さて、桂離宮である。この建築は、モダニズムを正当化する言葉のなかでクローズ・アップされていた。しかしモダニズムの普及は、そうした言葉の必要性をうすめていく。伊藤ていじは、この点についても興味深い指摘をおこなった。一九六二(昭和三七)年の指摘である。

タウトが来たころの近代主義建築は、まだ寥々としてものであったけど、(略)今どき伊勢や桂をもちあげても、前衛的約割を果たさないのではないか……若い者が伊勢や桂を追いまわしているようでは、もうこの先の見込みはあるまい……(略)

へぇ。モダニズムの側が、桂離宮を見捨てだしたんだ。
しかも、タウトと桂離宮に関するモダニズムプロパガンダに対し、自覚的じゃないか…。

一九六〇(昭和三五)年のことである。建築家・丹下健三は一冊の写真集を刊行した。
(略)
タイトルはそのものずばり、『桂』と銘うたれていた。そのなかで、丹下はつぎのようなことをのべている。

(略)
この桂を貫徹しているのは、あくまでも視覚的美的立場である。ここでは柱は自由な位置に設定されている。それはある場合には構造的合理性をまったく無視している。

「構造的合理性をまったく無視している」。この言葉は重要である。
モダニズムの建築観は、なによりも「構造的合理性」を第一とする。

で、モダニズムの象徴にしなくてよくなったので、「桂離宮モダニズムの建造物」というバイアスから、建築家達も自由になったわけか。

一九六一(昭和三六)年、川添登はこうのべた。丹下が『桂』を出版したその翌年の指摘である。

これまで東照宮桂離宮とは、つねに対立する正反対のものとしてのみ説明づけられてきたようだが、少しでもその内容を検討してみるならば、驚くべき類似性が存在していることに気づいたはずである。

桂離宮と絢爛な装飾美をほこる東照宮に「驚くべき類似性」がある。これは、モダニズム勃興期には、なしえなかった指摘であろう。時代の変化を感じざるをえない。

ここまで言っていたのか…。
でも、まだ我々にとって、桂離宮はモダンな直線で構成された美の殿堂のままなんだよな。