つくられた桂離宮神話8
一九七六(昭和五一)年、春のことである。桂離宮では、創建いらいはじめてともいうべき大修理にとりかかった。建物の老朽化がひどく、保存上ゆゆしき状態におかれていたからである。
(略)
ここで注目すべきは、この竣工をつたえる新聞記事である。「大修理」の終了にあたっては、つぎのようなコメントが報道されていった。桂離宮と同時代の日光東照宮が将軍の権力を背景に豪華けんらんな色彩美をふんだんに取り入れているの対し、桂離宮の本質は古来、白と黒を主体とした<簡素の美>。しかし、本来はもっと“華やかな部分”のあったことが突き止められた。
(略)
修理工事では、創建時の姿もじゅうぶん意識されていた。場合によっては、「華やかな部分」が復元されたところもある。この点について、ほかの新聞は左のようにつたえていた。「古書院正面屋根の紋章が造営当初金箔張りと分かり、くすんだ色から金色に復元、地味な離宮のイメージが塗り替えられた」。
「『わび』『さび』に代表される従来の簡素美のイメージとは少し違った、当時のみやびやかな色彩感覚が戻ってきた」。事態は明白である。
新聞各紙は、じゅうらいの桂離宮像を簡素美というカテゴリーで位置づけた。
(略)
桂離宮がけっして「簡素の美」だけでは語りきれないということ。これは、もうすでに建築家たちのあいだではひろく知られていたはずである。
(略)
おそらく、建築界にとっては常識であっても、新聞読者にとっては耳あたらしくひびくと判断されたのだろう。あるいは、新聞記者じしんが建築界の動向を知らなかったためかもしれない。
ここまで読んでいれば判るが、
- 桂離宮は美しいと建築家たちは考えてきていたが、世間には知られていなかった。
- モダニストが「桂離宮が簡素な機能美であると外人建築家も絶賛」という「再評価ムーブメント」を開始。
- 世間一般が桂離宮を「簡素な機能美」として認識
という動きで開始された、桂離宮の評価。
戦後、桂離宮は「簡素美だけではない」と建築家たちの考えが変わっても、「再々評価ムーブメント」を起こすほどの動機も必要性もなかったわけだ。
そりゃ世間一般は桂離宮を「簡素な機能美」として認識しつづけますわな。
一九六〇年代以後、建築界では簡素美イメージが衰弱する。そしてその衰弱はモダニズムのおとろえにねざしていた。
つまり、建築界の内部事情に由来する衰弱だったのである。
だが、このイメージをささえた両輪のうちのもういっぽうは、あいかわらず健在であった。日本文化論のほうには、特別なおとろえはなかったのである。
そうよね。日本文化論の方が、日光東照宮スタイルの色彩と豊饒こそ日本である…といまさらベクトルを変えることはなさそうだもんな。
大津絵とか、土俗寄りの方面は結構カラフルで猥雑なんだけど、そっちよりの話は民芸運動とかに分離した上で衰えちゃってるもんなぁ。