つくられた桂離宮神話9

桂離宮の拝観は、なかなかてつづきがめんどうくさい。
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しかし、にもかかわらず、桂離宮の人気は低くはない。観光客も、しばしばここへやってくる。いわゆる京都名所のひとつとなっている。
じっさい、現在出版されている京都の名所案内書で、桂離宮に言及しないものはほとんどない。

桂離宮は事前申込が必要だからなー。ほんと面倒。
いちおう京都出身の私も行ったことがないのはこのめんどくささのせい。

しかし、これは、すぐれて現代的な現象である。桂離宮は、創建当初からそのようなあつかいをうけていたわけではない。じじつ、江戸時代の名所案内書だと、桂離宮をとりあげたものはまれである。
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名所案内の書物にどれだけくわしく紹介されているか、この点は、名所のネーム・バリューを考えるうえでも重要である。
名所案内書のスペース配分は、各名所の知名度と密接なかかわりをもつ。
(略)
江戸期の『都名所図会』は、桂離宮を黙殺した。そして、現代の案内書は、これを大きくとりあげる。桂離宮知名度は、あきらかに上昇したというべきだろう。
では、その知名度はいったいどのように上昇してきたのか。

ということで、万治一年からの103冊のガイドブックを著者は調査し、そこでの文書量を確認する。

手法の詳細は省くが、かなりしっかりした計量書誌学的手法を使っていて感心させられる。
んで結論。

だが、つぎの二点ぐらいは、まずまちがいはないだろう。
すなわち、ひとつは桂離宮の人気が一九世紀末ごろから高まりだしたこと。
そしていまひとつは、それが一九二〇年代と五〇年代にピークをむかえた点である。
(略)
人気の上昇は、タウトがここを「発見」する四〇年前からはじまっているのである。

モダニストたちがタウトに「発見させた」以上、モダニストたちがそれを知る程度の知名度があって、タウトが「発見した」という話に異論が出にくいくらい知名度がない…という、絶妙な状態に桂離宮はあったんだろうなぁ。