つくられた桂離宮神話10

では、いったいなぜ桂離宮のポピュラリティは右のように変貌していったのか。つぎに、この点をあきらかにしなければならない。
そして、まず第一に問うべきは、一九世紀末の状況である。
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桂離宮「発見」までの状況について。

いうまでもなく、桂離宮離宮である。皇室財産のひとつである。現在は宮内庁京都司庁がここを管理している。しかし、それははじめから離宮としていとなまれたものではない。創建は一七世紀のはじめごろまでさかのぼるが、当初は八条宮家の別荘であった。
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天正期に八条宮家としてはじまったこの家は、元禄期には京極宮と改称する。
そして文化年間には桂宮となる。とうぜん、桂の邸地も桂宮家が所有するというかたちになった。
だが、桂宮家いたいはそう長くつづかない。はやくも三代目でたえることになる。一八八一(明治一四)年一〇月三日のことである。最後の桂宮、淑子内親王が歿した。

もともと桂離宮は、八条宮家の別荘…というのはさすがに知っていた。
でも、絶家が明治前半だとは知らなんだ。

当時、京都は遷都で天皇をうしない、さまざまな点で都市の衰退が目につくようになっていた。
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この京都をなんとかしなければならない。とうぜん、京都の有力者たちはそう感じていた。そしてその思いは京都出身の岩倉具視も同じであった。
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桂の別荘は「格別の勝地」である。離宮とさだめ「皇宮地」に「編入」し、「永ク御保存」してほしい。以上のように、ここでは保存のための離宮編入という意図がストレートにしるされている。

二条城をはじめとして、荒れた京都の廃邸宅を、皇室の財産に編入して、皇室予算でメンテする、ということを岩倉具視たちが行っていたらしい。

公的な場所なら名所案内がこれをとりあげることもありうるだろう。しかし、個人の別荘というのでは話にならない。
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桂離宮のポピュラリティは、一九世紀末になり急上昇をとげていく。その第一の要
因は、ここが離宮という公的空間に変貌したことにあるだろう。

それにより、離宮は一般へ開放されるようになり、タウト以前に評価がはじまったわけだ。そうじゃなきゃモダニストたちもタウトを連れて行こうとは思えないわけで。

これ、桂宮家の絶えるタイミングが悪ければ、荒れ果てた桂離宮が公開され、タウトに見せるどころじゃなかったんじゃ…。