つくられた桂離宮神話11

桂の別荘は、一八八三(明治一六)年に離宮となる。
(略)
しかも、桂離宮は、一八九五(明治二八)年になってから、急に案内書にとりあげられだしている。
離宮編入以後、じょじょに収録されだしたというのではない。
(略)
いまいちど、名所案内書の一覧に目をとおしてみよう。この年には、確認できたものだけで一二冊におよぶ案内書が出版されている。これだけ多くの案内書が刊行された年は、ほかにはない。
(略)
京都の歴史にくわしい読者なら、すぐに納得されるだろう。じつは、この年は、京都にとってとくべつな意味をもっていた。すなわち、平安遷都からちょうど一一〇〇年をへた年だったのである。
これにちなみ、京都では平安遷都一千百年祭をもよおしている。そして、それを記念して内国勧業博覧会をひらくことにも成功した。

第三回まで上野で開かれていた内国勧業博覧会。これが京都で開かれたのがこの年だった。
すでに公共のものとなっていた桂離宮がガイドブックに紹介されだしたのはこれが理由だった。

「京都」で「博覧会」といえば、芸妓はん、都をどり、立礼を思いだす。

http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20130124


が、これは京都ローカルの展示で、内国勧業博覧会という全国クラスのものではなかった。

ちなみに京都博覧会についても記載がある。

京都博覧会がはじまったのは、一九七一(明治四)年、西本願寺を会場として、一ヵ月にわたるもよおしがひらかれた。
以後、京都では、このときに誕生した京都博覧会社により、毎年博覧会がひらかれている。そして一九は七八(明治一一)年には、桂の別荘をも会場の一部とすることになった。博覧会開催期間中にかぎり、この別荘を一般に公開することにしたのである。

なんと、京都博覧会では桂離宮…まだ当時は桂宮家別荘が特別公開されていたというのだ。

こういうイベントでの公開などで、桂離宮はほどほどに一般化しており、(しくまれた)タウトの発言からの大爆発を待つことになる。


しかし、なんですな。
京都ってのは遷都××年祭とか、特別公開とか、百年以上前からおんなじビジネス続けてるんですな…。ある意味そっちの方が凄いよ…。