けいこと日本人2

稽古事──とくに遊芸の稽古は、世間一般の生活と遊離した「夢の世界」に遊んでみたいという人間の潜在願望を、かなり容易に叶えてくれます。

我々が「茶の世界」にいるのは、現実の生活と、茶の世界の生活と言う二重生活を楽しめるから…ということですな?

これが全てではないような気もしますが、少なくとも上記は正しい。

一意専心でないとお茶が楽しくないのもこれが理由だし、仕事が忙しければ忙しいほどお茶が楽しいのも、このせいでしょう。

ワンマン社長が、地位も財力もくらべものにならぬ青二才の書生に頭ごなしにしごかれてヒーヒー言っている図など、威張って暮すに飽きた者の珍しい遊びなのでしょう。
(略)
夢の中ですから実社会の地位も力も通用しません。
その社会だけの独特なルールや常識がすべてを支配するのです。
これを容認することが夢を見るための絶対条件となります。

「容認」という言葉が重いですな。

「容認」するためには、自らが進んで身を投じないといけない。
子供が「やらされる」稽古が続かないのは、この為でしょう。

逆に言えば、夢だから覚めることもあります。
ことに居心地が悪く、苦痛を伴う夢は覚めやすく、一旦覚めたら二度とその世界に戻りたいと思わないでしょう。
われわれその世界で生活しているものは、いかに良い夢を店、いかに長く深く楽しんでもらうかに心血をそそがねばなりません。

おおぅ。それ言っちゃいますか。
稽古事の先生…という、威厳を保ちつつ、エンターテインを与え、収入を得る。求道といいつつのお仕事のことを。
エンターテインに走り過ぎると、卑しくなって客が覚めてしまうという、非常に難しいお仕事のことを。

明治の初頭、茶道家が「遊芸人の興行」として税を取られそうになっていたのも、故無いわけではないわけで…。

そういう意味で、家元の権威ってのは威厳をキープしながら娯楽を提供し収入を得る…という難題に対しての、ひとつの解答かもしれませんね。