けいこと日本人5

一概に先生・師匠といっても、その社会においての地位・資格はさまざまです。
(略)
ですからここでは、自分の先生にどういう像を期待するかの立場から論じてみましょう。

先生の立場の人が、教わる側の気持ちになるというのは珍しい。

(1)教え上手の先生

流内地位にかかわらず、また芸がそれほど上手でなくても、勘所を押えた実に親切な指導をしてくれる先生があります。
芸を習うためには理想的な先生と言えます。
ところが、自分自身が玄人になって生活手段と考えている人には、その先生の芸社会における地位が低いと決定的な不利となります。
かといって、その先生を離れて他の先生に変わることは、第一に稽古事社会の仁義に反しますし、新しい大家先生のところでも「返り新参」として扱われ、かえってひどい不利益を蒙ることがあります。

これはちょっと難癖っぽいかな。

教え上手で、流内の地位も高い先生もいるかもしれないわけで、地位と教え方の上手下手は関係がないからね。

でも、同流内で先生を変える、という事の不利益を明言しているのは面白い。

「返り新参」という用語まであるのか…。これって「寝返り」だよね。裏切者扱いってことだ。

(2)見栄を満たしてくれる先生
「あーら、どなたにお稽古なすっていらっしゃるの?」「○○流の宗家でざーますの!」ということに無上の満足を感じている方も決して少なくありません。
日本舞踊などでどんどん新流ができるのは、このメリットが大きいからです。
ただ、この見栄の代償は、原則として大変に高くつきます。
稽古もそう丁寧にとは望めず、多くは名前だけで、書生さんの稽古台にさせられる場合も多いと覚悟しなければなりません。
月謝もおさらい会の会費も最高レベルでしょう。

これは判らんでもない。
すごい金持ちなら、札びらで頬を叩けば家元宗匠が出張稽古にやってきてくれると思うけど、まぁ普通は助手の指導にあずかるのが関の山だよな。

(3)芸術家として優れた先生

稽古事の多くは何らかの発表の場があり、そこで人並みすぐれた成果をあげてみせられる人を先生とすることは、たしかにすばらしいと思います。
(略)
しかし、単にお遊びや良い交友を求めての方なら、こんな先生はもて余すでしょう。
さらに困るのは、芸術家ぶることで弟子を幻惑し、威張ることで権威を持つ人も結構多いことです。

ああ、ここが能楽の人の感覚かもなー。

お茶には明確な「発表会」がない。なによりも先生が見せてくれる「人並みすぐれた成果」を、ただ真似すると言うことができない。

能なら、すばらしい先生の演技を間近に見ることだけで稽古が成立するかもしれないけど、お茶はそうもいかない。

つーか、そろそろ10年になるお稽古暦の私でも、先生のお点前って数えるほどしか見てない。多分、20回以下。

先生は「して見せる」ではなく「させる」ものであり、見せて教えるが成立しないのがお茶の良いトコであり、悪いトコだよな。