床の間の構成 装飾編8

然しながら我國古來より傳ふる各種の装飾器物や什器をして、直ちにそれを我々の住宅建築に對し装飾的効果を擧げんと企てゝ見ても、それは餘りにもすべてに距離の遠いものである。
如何に光琳の六曲屏風が装飾的價値に富んでゐても、到底誰もがそれを眞似することは出來ない。
或ひは池大雅堂の書幅や衝立が、如何に美術的價値が高からうとも、或ひは装飾的効果があらうとも、何人も自由に實行することはむづかしい。

芸術品で床の間を飾りたくても、そうそうは無理、と著者は言う。

また各種の装飾具や什器も、今後に於ては單に美しいとか華麗であるといふ意味の外に、總て實用美があつて慾しいのである。
茶碗一個に數千金を投じ、皿一枚で御家擾ぎ起つたりした徳川時代の傳統的な惡趣味を我々の装飾藝術より捨て去らねばならない。

高価なだけでは駄目で、これから実用美が欲しいとも。

この辺、民芸運動の影響を受けているのかもしれない。

然し日本古來の飾りもの、置物として、又は什器としては、相當藝術的なものが多く遺され、その一部のものは、床の間の装飾具として是非添加せしめたいものが澤山あるのである。先づそれらの各種のものを掲げて、今後の近代住宅の床の間装飾に就いてのものを
考察して見たいと思ふ。

と、ここから日本人形や扇など、いろいんな工芸品の羅列があるが、「ピンとこない」。
あまりに普通過ぎてピンとこないのである。

もしかして、昭和初期の床の間は、高度経済成長期のそれとは全然違っていて、高度経済成長期の床の間感しか持たない自分には著者の問題提起がなぜ起こったか理解できないのかもしれない。