数寄屋図解事典5

おおざきえんのすきや(大崎園の数寄屋)
松平不昧侯が晩年静かに茶禅一味の境涯に入るため、江戸品川御殿山2万1千9百坪の高台に幽邃な林泉をめぐらし、大小種々の茶屋、数寄屋を11か所設けて大崎園と名づけられた。
(略)
この大規模な名園も嘉永の頃黒船襲来に狼狽した幕府は品川の台場を築くために破壊された。
(略)

御殿山、大崎駅と品川駅の間に、松江藩下屋敷があった。

http://www.city.shinagawa.tokyo.jp/hp/page000006700/hpg000006653.htm

でも、隣の岡山藩池田家下屋敷に吸収された上で防衛設備に転用されたらしい。残念。

この時まだ井伊直弼大老ではなく、三浦半島の防衛に出てたっぽい。井伊直弼なら止めてくれたろうに(接収してたかも)。

なおここにあった独楽庵は:

どくらくあん(独楽庵)
天正年中(1573-1591)千利休が宇治田原に建てたとも、また大阪に建てた茶室とも伝え、(略)
後この茶室は松平不昧の手に入り江戸大崎園に移築し、後、また砂村下屋敷に移されたが、津波に失われたと伝えられます。

移築の上、安政の大地震で流されたことになっている。

でも安政の大地震津波は伴わなかった説があるので、単に倒壊したけど直す金が無かったとか、その辺じゃねーだろーか?外聞悪いしね。