数寄屋図解事典15
そですりのまつ(袖摺の松)
露地の歩道の苑路の際に特に他の潅木類に対して対照の破を意味するために松の大木を植えてある場合にこれを袖摺の松といい、その起源は利休の茶室待庵に秀吉が露地入りの際鎧の袖を摺ったことからかく名づけられている。
待庵に秀吉が来た証拠もなきゃ利休の茶室という証拠もないのであるが、逸話とは勝手にふくれあがっていくものであるなぁ。
しかし、鎧姿の秀吉とは、どんだけの速度で利休は待庵を建てたんだろう。
中国大返しに合わせ活動を開始し、天王寺の戦いが終わった瞬間から建てはじめ、戦乱が収束するまでの数日で建て終わらないと、鎧姿の秀吉がやってくることはないはずだもの。
たいおうそう(対鷗荘)
東京都南多摩郡連光寺向ヶ丘にある茶室。この対鷗荘の建物はもと東京隅田川畔の橋場にあった三条実美の別荘で、茶室は岩倉具視の所有で、明治維新の際は国事を議した室であり、また外国の使臣を招いてお茶の会を催され、ことに明治天皇も22才の時三条公の病床をお見舞された由緒正しい建物であったが、昭和4年(1929)田中光顕の尽力によって現在の地に移築されたもので(略)
田中光顕は明治の元勲で、蕉雨園の主。建物と明治天皇になみなみならぬ愛情のあった人。
資料によっては対鷗荘はさらに移築され、旧聖蹟多摩記念館になったというが:
http://www.city.tama.lg.jp/shisetsu/17997/023244.html
この建物はコンクリ造の記念館であり、茶室は併設されていない。
どうやら対鷗荘は老朽化し、80年代に取り壊されたらしい。
残念な話だ。
たいざんそう(泰山荘)
東京都三鷹大沢にある荘園。この園内には「草の舍」という書屋と、「高風居」と名づけされた六畳の茶室があって(略)
国際基督教大学構内にある山荘。たまに公開されるらしい。
http://subsite.icu.ac.jp/yuasa_museum/taizanso_web/build.html
開戦の影響で山荘が中島飛行機に売られ、その後国際基督教大学にその土地が売却された、という話らしい。
…多摩地区あたりは茶室を大事にしない文化でもあるんだろうか?