数寄屋図解事典29
やまとうち(大和打ち)
板を交互に表と裏から横貫または胴縁に打付ける工法をいう。この形式でつくった戸を「大和打の戸」という。
これか。
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E6%89%93%E3%81%A1-649407
良く見るけどそういう名とは知らなんだ。
でもなんで「大和打ち」なんだろう。語源が知りたいなぁ。
やまとがき(大和掻)
下地窓などの下地の一部に竹に藤蔓を纏うことをいう。
本大和は両方から掻くことで、片大和は一方から掻くことである。
この掻くという意味は、鳥が巣をかけるところから転じたものといわれている。
あの下地窓の竹に巻いてある蔓は、そういう名があったのか。
でも本大和と片大和がどう違うのか、さっぱりわからんな。
「両方」は壁の両側を指すのか竹の左右を指すのだろうか?
あとこっちの「大和」とも一つ上の「大和」に関連性はあるんだろうか?
やまのちゃりょう(山の茶寮)
天正年中に豊臣秀吉が大阪城を築城の際、外濠近くの丘(大阪市夕陽丘付近)に建てられた茶寮で、伝説では加藤清正の構想になるものといわれ、この露地には外濠に通ずる空井戸と暗路があり、この数寄屋では武将が密議をしたり暗殺を行ったところと伝え、毒薬を調合する室、非常の場合には直ぐ飛出して間道に抜ける場所、裏の弁天抜け穴、廊下に設備してある落穴、護衛のための床柱(チシャノ木)、廻転装置の壁、窓の見えない採光装置、座敷牢、自然の戸締りなどおよそ陰謀と密議に徹した各室はまたすべて数寄屋造の意匠で、珍しい遺構であったが、戦災で焼失した。
なんじゃこりゃ!
戦前には大阪市内に忍者屋敷の様な茶室があったってことよね?見たかった!
でも情報が全然ひっかかってこない。
「山の茶寮跡」みたいな石碑があってもおかしくないのに。
あと、いろいろ読んだ近代数寄者の本にも出てこなかった気がする。
本当にこんな馬鹿なものが存在したんだろうか。