茶匠と建築
中村昌生/鹿島出版会/1971年。
茶道建築界の…というより茶道界の長老みたくなっている中村昌生の、茶匠毎の建築に関する本。
40年前の本であるから、茶の湯と茶匠に対するアプローチが、ある意味偏見で成り立っている。
むしろそこが見どころか。
冒頭「千利休」より:
利休が、もし秀吉の他界を見守り、しだいに幕藩体制の固まってゆく慶長の時代を安穏に過ごして、生涯を終えていたとしたら、今ほどに彼の名は、歴史に残らなかったであろう。むしろ織部の名声におされ、千家の茶も最高の権威を得るに至らなかったかも知れない。
いわんとする事はわからんでもないが、利休の聖人化が過ぎる時代に、頑張って批判してみた。んでもこのぐらい、という感じが否めない。
利休が豊臣政権でぶいぶい言わせていた事実も指摘すべきではなかろうか。
二人の対立は、専制君主の権力の確立を目ざす立場と、町衆の身で茶の文化を広めようとする立場との相違であり、それはそのまま二人の人間的個性の対立にもつながっていた。
(略)
というのも古い見方か。
北野大茶会は秀吉が茶をひろめようとしているように見えるし、豊臣家の家政に介入する調整役利休は、それこそ専制君主の権力の確立を目指している様にもみえるわけで。
秀吉は、天正一二年正月、大坂城山里丸で二畳敷の茶室の開きの会を催し、草庵の茶の口火を切った。しかし翌年暮れには、大坂城内で黄金の茶室を組み立てて見せた。
(略)
利休は、黄金や名物を鼻にかけたがる秀吉に、心入れの尊さをぜひ教えようと努めた。
英雄秀吉の空虚な一面を、利休はよく見抜いていた。
文化人としては、秀吉より優位に立っているという自信もあった。
茶の湯を通じて、なんとか秀吉を文化人としても大成させたいという情熱を、利休は抱いていたように思える。
どうなんだろうね?この断定は…。
たかだかお茶のジャンルで優越してるだけの話でレベル高い文化人ってのもどうなの?
「南坊録」の語る利休さんなら、これぐらいの深い心はあったかもしんないけど、「茶話指月集」の語る利休さんは、人情を解さぬお茶キチガイに過ぎませんよ?