茶匠と建築2

さて、昨日の古風な先入観で茶室をみるとどうなるか。

山上宗二は、その伝書のなかで、関白秀吉の時世になって一〇年ほどの間に「上下とも三畳敷、二畳敷半」が流行しはじめたと書いていたし、当時の茶会記にも、そのような動向が、はっきり現われていた。
この事実は、利休の侘茶が、秀吉との交渉を通じて大きく進展したという、先の推測を裏付けるに充分であろう。

宗二はまた「宗易茶湯は老年七十也 卅四十迄ノ行法度ノ如ク仕ラル」「六十一ノ年迄ハ紹鴎四畳半の写也 六十一ヨリ替ル」と述べていた。利休六一歳は天正一〇年に当る。政権が信長から秀吉に移ろうとする時であった。
それまでの利休の茶室は、紹鴎四畳半の写しであったというのである。

こちらはまぁ普通。
山上宗二記を見ると、天正十年で茶風が変わるのは明記されているんだし。

だが信長は、利休よりそうした宗及の方を用いていたらしい。
利休による侘茶の推進が、信長在世中は本格化しなかったのも、そうした情勢のためだったかも知れない。

権力者に阿らないと自分の四畳半を三畳にすることができない、というのであれば、信長の茶の湯御政道は商人にまで範囲を持つ、建築制限を含むものだったということになる。まさかそんな事はあるまい。

秀吉に重用された途端に茶風が変わったなら、それは秀吉のおかげな訳だと思う。

でもその「おかげ」の方向性が問題で:

さてこうして、天正一五年北野大茶会の時に建てられた利休四畳半では、もう完全に草庵化が達成されていた。
(略)
利休としては、世紀の大茶会を、秀吉の権威の誇示だけに終わらせず、黄金の茶室との対比によって、茶の湯のあるべき姿をはっきり世人に示しておきたかったに違いない。

利休が四畳半を切り詰め、三畳、二畳半と小さくしたのは成金秀吉への反発…というストーリーラインになってしまう。

金秀吉と侘び芸術家利休、という対比の判りやすさがこの二人の関係をゆがめてきたと思うんだよ。

利休は死に方がかっこいいから聖人君子に思われてきた。

利休だって実質一代で成った成金で、権力に取り入り、茶道具の周旋で儲けていたかもしれない人物なのに…。