茶匠と建築3

細川三斎の話。

松屋日記』には、織部と三斎に対する評価が次のように述べられている。

数寄と云ハ違而するが易のかゝりなり 此故ニ古織ハ能 細川三斎ハ少モちがわで結句それ程ニ名を得取り不給と云

利休の茶風を忠実に実践するばかりで、新しい作意を殆ど示さなかったために、三斎の名声はあがらなかったというのである。
果してそうであったろうか。
確かに三斎は、織部に対して利休の茶の保守的継承者であったことは否めない。
だがそれは、利休の茶の消極的な模倣者ということではなかった。

本書では、三斎は利休を受け継ぎ、自身の茶風に高めた人、という評価である。
別段間違っているとは思わない。

だが:

松屋会記』によると、(略)これによって長四畳の茶室のことも詳しく知ることができる。
この茶室は北向の長四畳で、前面には「ケタエン」すなわち槫縁と「ヌレエン」がついており、縁先に手水鉢が、自然石の台石の上にのせて据えられていた。
(ざっくり略)
書院の一角に、巧みに侘びの空間を構成しており、これだけでも三斎の手腕は、充分に窺える。

三斎の好んだ茶室のどこが利休から受け継いだもので、どこからが三斎の工夫なのか書いてないと、議論がなりたたんではないか。

なぜなら茶室は、その茶人の茶風をもっともよく表現するものなのだから。

その観点でいうと、三斎の茶室は利休の茶室と違っていて、つまり利休の茶をちっとも受け継いでいない、とすら言っていいんじゃなかろうか。