茶匠と建築4

織部の話。

文禄五年三月八日、松屋久好は大鋸屋道賀と一緒に、伏見の織部邸の朝茶に招かれた。
久好の会記に、路地ヒロシ、石灯籠ニ火アリ、手水湯出ル、座敷三条大、南向き也、
(略)
と見える。
これによって当時の織部邸には望覚庵と称する三畳台目の茶室のあったことが判る。
これは、のちの「燕庵形式」から相伴席を取り除い間取りで、(略)
(略)
慶長四年二月二八日、神谷宗湛らが呼ばれた時の茶室は「凝碧亭」という三畳台目であった。
(略)
織部の作例と伝えられるものの大半は、燕庵形式であった。

あれだけいろんな事をやってるイメージの織部だが、茶室に関しては燕庵ばっかりである。

織部にとっては独立茶屋がもう当然で、大徳寺塔頭を建ててやるエピソードもなければ、侘び茶人を助けてやるエピソードもない。
制約がないとこで茶室を作れば、「俺の最高と考えてる形式」ばっかりになるのは当然か。


ある程度上のレベルの茶人は、自己の茶境を茶室という形で残している。

茶人織部を偲ぶものはなにか?というと「燕庵」であろう。


…そういう意味で人の茶室を誇っているだけの藪内剣仲はいかがなものだろうか。
そういえば本書には藪内剣仲の項目はない。まぁそういうことなんだろう。