茶匠と建築6

遠州の話。

織部のあとをうけ、茶道界の指導的地位を占め、やはり柳営の茶道師範に迎えられた遠州は、武家の茶匠として、織部と同じ立場におかれていた。
(略)
茶の湯において遠州の取り組んだ課題は、封建社会への順応と茶の湯の理想を、どう調和させるかということにあったといえよう。
(略)
それが具体的には「書院茶」の形成となってあらわれた。
いうまでもなくそれは、利休の「草庵」からもっとも遠く、それに対立するような立場にたつものであった。

遠州は大作庭家であり、目利きであるが、そういえばあまり遠州の茶室自体の特色みたいなのを考えたことがなかったな…。

遠州といえば書院、か。
なるほど。実にそれらしい。

でも、私は遠州が二畳台目あるいは三畳台目の茶室を作っていることを知っている。

小間を作っているのに草庵でないとはどういうことか?

遠州の建てた書院「直入軒」は、六畳で、次の間が四畳半であった。
(略)
次の間の北に三畳の茶室「縄枢」があった。
(略)
恐らく三室を続けて、ここを茶立所のように使いうることが考えられていたのだろう。
(略)
直入軒に見るように、幾つかの室を続けて使う立場から全体の構成を考えるところに、遠州の書院の特色があった。
それは伏見の鎖の間にもみたし、またあとで述べる滝本坊の書院にも顕著であった。

屋敷の一部にひなびた庵を結ぶ、ということをせず、屋敷の一部や大きな数寄屋を連続した茶室として作る、というのが特徴か。

我々が現在大寄せで使う蕉雨園のでっかい茶屋みたいなのは遠州が創始と考えていいわけか。

二畳台目も他の広間と連結されては微温化せざるを得ない。

合理的で、そしてちょっとつまんない。
それが遠州の茶室なんではなかろうか。