茶匠と建築7

宗旦、江岑、仙叟の話。

宗旦は「仕官を好ず 隠者ニ而罷在」て「一生竟風塵に走らず」といった風にあたかも隠逸の茶人であったかのように伝えられている。
(略)
幕藩体制の強化につれ、人々はいやおうなく、封建体制の機構に順応した生き方に従わなければいけなくなった。
(略)
利休の茶統を守ろうとする利休の子孫たちにおいても、全く同じことがいえる。
それにもかかわらず在野の立場を固執する宗旦の態度を、子供たちは大いに嘆いていたらしい。

本書の初版は昭和46年。

同じ年に出版初公開された宗旦文書の為に、子供を仕官させる為に必死な宗旦、とイメージが180度変わってしまった。

茶室における、もっとも宗旦らしい創意を示すものとして「土床」を挙げることができる。
(略)
利休は聚楽の自邸の二畳や待庵で、「室床」を試みていた。
室床は天井まで土を塗り上げていたが、下は框をおいて畳が敷かれていた。
土床は、その畳や框の所まで土塗りで仕上げ、僅かに紙を貼って座の気持ちを表わす形式である。

なるほど。
空間構成より、素材に注目するのが千家流かもしれない。

こうした彼の好みの一端にも「むさい」と評される素因が、充分読み取れるであろう。
(略)

結論が酷いよ。
否定できないけど。

でも京都は遠州が、宗和がブイブイ言わせていた時代に土床ではねぇ。