茶匠と建築8

昨日の続き。

少庵は慶長十九年九月三日、六九歳で没した。
宗旦はそれから四年程して、一畳半を造り、不審庵と称した。
それまでは、少庵の建てた深三畳台目が、千家の茶室として代表的な地位を占め、多分、不審庵と称されていただろうと思われる。
それを宗旦は建て替えたのである。

表千家裏千家が未分化だった広い敷地の時代。
なんで父の茶室を潰す必要があったのだろう?

江戸時代の茶書では、不審庵といえば殆どが平三畳台目の事を伝えていた。
しかし実際には少庵時代には深三畳台目があり、宗旦の時は一畳半があったのである。

現代に伝わるものも含め、不審庵は三代あった。

江岑が父の(裏への)隠居を機会に、茶室を作り替えたというのもまた解せない。

本書では江岑の平三畳台目は宗旦の作意としている。

宗旦は利休らしい台目構えの典型を、この三畳台目に確立したいと考えたのだろう。
(略)
例えば中柱の袖壁が半間なければ、(深三畳台目では半間の1/2しかない)「横竹ニ利休流ハ木ハ不入竹ニスルナリ」「竹ノ節ヲ三尺ノ間ニ四節入ルモ必利休ノ法」(『茶譜』)と宗旦が主張した利休流は、実現できないのである。
(略)

「宗旦の唱える」利休流実現の為に不審庵を作り替えたのだと。

「利休の風を残した少庵の深三畳台目の不審庵」よりも「宗旦の一畳台目」よりも、現代に残る平三畳台目の方が利休流にふさわしい、という判断が宗旦にあったわけか。

時系列に捻れてる気もするが、流儀と言うほど流儀ではなかったろう利休の教えを体系化するうちに、本来の利休茶室がその物差しから外れてしまうと言う捻れ現象があったのだろう。

でもまぁ考えすぎなのかもしれない。宗旦はただただスクラップ&ビルドしたい建築マニアだったのかもしれないわけだから。…つまり普請庵。