茶匠と建築9
昨日の続き。
宗旦は正保三年卯月、譲状を認め、屋敷の北部一六間を隠居屋敷に定め、残りをそのまま江岑に譲ることにした。
(略)
それから二年後の慶安元年五月二八日、宗旦の利休忌に招かれた鳳林和尚は
宗旦隠居之家初見之也 座敷一畳半也
と日記に書いていたから、この頃、一畳半の茶室ができていたのである。
この茶室には床がついていた。
(略)
当時、隠居屋敷には茶室といえば、この一畳半しかなかったのだろう。
茶のあと鳳林和尚を居間に通していたから、書院もまだなかったに違いない。
隠居所としての「裏」は、当所は小さな所帯だったようだ。
でも、「裏」は隠居所の敷地としては広すぎる。「表」とほとんど変わらない地所だもの。
仙叟に譲る気まんまんだったんだろうなぁ。
しかし翌年にはもう、宗旦はこれを改造したらしく、五月に招かれた松屋久重は、
隠居ノ二畳敷、一畳半敷テ残リハ板畳也 中柱有之 但ヌキは無之候
と記し、今日庵二畳と同じ間取り図を伝えていた。
やはり建築マニアなだけなんでは…。
一畳半に床を付けるという形には、侘びの創意としてなお不徹底なものを宗旦は覚えたのであろう。
今日庵に関して思うのは、壁床の作意より、天井。
今日庵の天井はシンプルで、格差がない。
点前座と客畳の天井に格差を付ける、というのは遜ってみせる媚びであり、いやらしい。
そんなに遜るなら客は畳に座らせ、自分は板の間で点前すればいいのに、そうはしないわけだから、なおさらいやらしい。
そういういやらしさを省いたのが素晴らしいと思う。
侘びに格差はいらんと思うんよ。