茶匠と建築11

庸軒の話。

しかし宗旦以後も、千家の門はあまり賑わなかった。
ようやく、如心斎や一灯の時代になって繁栄期を迎えるのである。
千家の茶風の伸張は宗旦の子孫の力だけによるでのなく、
宗旦の弟子たち、とくに四天王と称される高弟たちの努力が大きかったのである。
彼らが市民生活の中に侘び茶を深く滲透させた功績は、高く評価しなければならない。藤村庸軒もその一人である。

つまり、四天王の地道な活動が京に千家のベースを造り、如心の頃に花開いた、という史観である。

ところが庸軒といえば

また、茶のあと、書院に客を通している。
(略)
こうして書院へ客を通すことは、この茶会記に殆ど一貫してみられ、
庸軒の茶会における注目すべき特色であった。

と、あまり千家らしくない茶風である。
しかも:

西洞院下立売南にあった、庸軒の屋敷の図『京都反古庵』や、各座敷の寸法書が伝えられている。
(略)
茶室から水屋を隔てて東に、四畳半を主体にした書院が続く。
(略)
庸軒はなぜ、こうした武家の茶匠の好みに基いて茶室をつくったのだろうか。

自宅は遠州なり有楽なりの影響を受けた茶室であった。

かろうじて侘びの性格を持つのが:

養祖父宗徳誇示の創立した黒谷西翁院に、庸軒は心ゆくままに一席を好み建てた。
それが現存する澱看席である。
(略)
こうした道安囲をとり入れようとしたことが、この茶室を侘びた性格に構成させて行く基本となっている。

澱看の席。ここがたまたま侘びた席なだけで、庸軒って全然利休流じゃなかったんでは…。

庸軒が他の3人と違って、庸軒が宗旦の弟子と自認していたか疑問はある。

単に出自が久田家で、久須美疎安に宗旦のエピソードを伝えたから、高弟の様に思われてるだけ…そんなことはないだろうか?