茶匠と建築12
宗和の話。
宗和の生涯自体は知っていたが:
慶長一八年に京都の誓願寺へ出世した安楽庵策伝は、(略)
彼は宗和の弟で、かつ茶弟子であるという伝え(茶人大系譜)もあるが、それは誤りで桂、関山両氏の研究によって、策伝は金森定近の子で長近の弟、すなわち宗和の大叔父に当たることが明らかになった。
策伝って金森家の人だったんか…。
んでもって策伝の茶は:
寛永六年六月五日、誓願寺の策伝の茶に招かれた松屋久重の会記によると、茶室は「古織部殿時ノ三畳大」が使われていた。いわゆる、燕庵形式の茶室である。
とやや武家より?なのだが、そういえば京都の寺に燕庵形式或いは八窓の席がいっぱいあるのはどういうわけなんだろう?武家好みというわけでもないのか…。
京都の宗和の屋敷は、
(略)
次に注目されるのは中潜から躙口までの露地が「屋根下也」とあって、屋根におおわれていたことである。
(略)
この自邸の試みをさらに発展させたものを、庭玉軒にみることができるように思われる。
宗和の茶室は、内露地が屋根下にある、という形式だった。
どうやってかは不明だと。
ただ、現代に残る宗和好みの庭玉軒は、屋根どころか屋内の土間が内露地なのだから、相当の工夫があったのかも知れない。
おそらく宗和は、内露地を含めた茶室空間の圧縮を考え、その中で、できる限りのゆとりを生み出すことを追求したのであろう。
このような土間(内露地)付きの茶室は、どんな庭の一隅にも、また書院の端においても簡単に茶の湯が設営できるという便宜がある。こうした利点も宗和は意図していたのであろう。
単に奇を衒ったのではなく、内露地をコンパクトに収納すれば小さな面積で茶になる、という心積もりか。
この時期から江戸中期までの京都の茶といえば、やはり豪商の茶で、庭に池を作り舟で渡るような壮大なスケールだったのを思えば、宗和の方向性がそっちではなく、むしろ侘び茶人にやさしかったのがちょっと不思議である。
実家を勘当された宗和は、どう考えてもそんな金持ちじゃないから、そういう工夫が生まれたってことなんだろうか?