茶匠と建築13

石州の話。

石州の京都綾小路屋敷にあった茶室が図(八三)で示されている。
四畳敷であるが、長四畳ではなく、深三畳に客座一畳を加えた矩折りの珍しい間取りを示す。
(略)

古図で分り難いので起こしてみた。


客座が一畳入り込んだ形になっている所は、いかにも相伴席らしく思える。
恐らくそのつもりで、こういう間取りが工夫されたのだろう。
茶道口(火灯口)の外には「勝手一畳」があって北は居間に続いている。
(略)

躙口でなく、縁側から三畳に入り、その奥に点前座と亭主床がある。
火灯口はあるが襖は無く、その奥の勝手が見える構造である。

ただ、一畳入り込んでいるところが相伴席なのかどうかは疑問がある。

給仕口がないのもこの茶室の特色といえよう。
ふつうなら給仕口をあける壁(勝手と相伴畳との境)は杉の砂摺り板を一枚張りにしている。これも異色な意匠である。

こういう大胆な構成は石州らしい、と思うが、石州を類型化できるほど石州茶室を知らないとの自戒がある。石州は私には簡単ではないのだ。

次に床の位置が目を惹く。客座から離して点前座の脇に設けた、いわゆる「亭主床」の構えである。
(略)
掛物をかけ、一人茶を味わっていた所へ客を通すという「常の躰」を、侘の小座敷にふさわしい構えとして取り入れた点に「亭主床」の意図があったのではなかろうか。
いわば独楽の構えを基本とした茶室とみることができよう。
だからあえて給仕口もつけなかったのであろう。
こう考えると、この茶室はずいぶん侘びた性格を、根底にもっていることが判るであろう。

本書では板壁の前を相伴席と推定しているが、縁の入口から入ると、この相伴席が一番奥なので居替りがめんどくさい。

相伴席から離れた一番手前の畳が貴人席になるが、炉が切ってあって少し狭い。

給仕口がないので茶道口から給仕するが、相伴席への給仕が難しいので、他の席に給仕する前に最初に給仕したい場所でもある。

…という理由から、ここを相伴席と推定するには無理がある気がする。
むしろここが主賓/貴人の席だったんじゃあるまいか?


なお独楽〜侘び、という展開はきっとその通りなんだろうな、と納得できる。

石州にその意識があって、井伊宗観にもその意識があった。
「おもてなし」など女々である。俺がお茶を楽しむからお前も勝手に座ってお茶を楽しむがいい。
これは案外武家の美意識なのかもしれない。