茶匠と建築14
最後に不昧の話。
松江藩の家老職を勤めた有沢家の菅田村山荘が、今見るような姿に築かれたのは不昧の時で、有沢弌善の代であった。
不昧が初めてここを訪れたのは、寛政四年二月一八日であったことが、有沢家に伝わる小林如泥作の煙草盆の箱書によって知られる。この機会に不昧が山荘の計画を指導したらしい。
(略)
不昧は、鷹狩りのあと山荘に立ち寄ると、ここで汗を流したという。
蒸風呂付茶室、菅田庵。
http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20170123
不昧が自分が楽しむために家臣に作らせ、家臣にメンテさせ、家臣に燃料代負担させるパワハラ茶室か…と思ったら、やっぱりそうだったという。
酷い。
露地は、南方、向月亭の庭との境が垣で遮られ、狭い坪庭の感じで、御風呂屋からこの茶室前まで、まったく眺望が絶たれている。
ところが、向月亭の庭に向かって開かれた露地門を一歩出ると、そこには快濶な眺望がひらけるのである。
(略)
かような向月亭を中心とするこの山荘の構想は、かの石州が好んだ大和小泉の慈光院のあり方に、はなはだよく似ている。
ああ、なるほど。高台の眺望茶室という意味で、よく似ているわけか。
不昧も石州流の人だしな。
風呂入っていい景色みて茶を呑んでいい気持ち。
…侘び茶人ではやれないし、豪商系茶人の貧乏ごっこではやらない、欲望に正直すぎる茶風が、不昧の大名らしさなのかもしれない。