茶室考

粟田添星/村松書館/1979年。

「総論」から。

古、桓武平城の御代、伝教、弘法の諸大師が吾が国に茶を将来した時代は、煎茶の法もたぶん陸鴻漸が著した「茶経」の法であったものと想像するのみであるが(略)
栄西と高弁との結びつきによって将来された宋の風俗は禅僧の間に行なわれて、今に其の宗の寺で奠茶と名付けて一種の礼法を遺してはいるが、(略)
特別の茶室を設けての今日の様なことは、世に伝える東山殿の物好きから出て珠光の意匠によるものである。

割と通り一辺倒の事しか書いてはいないが、この本が出たのがもうすぐ昭和の終わりに近い時期なのが面白い。

著者は明治38年の生まれで、昭和50年〜昭和60年の十年間に精力的に本を出していた。
たぶん、茶書のいろいろをそのまま受け止めていた最後の世代かもしれない。
この後の世代は、こんなまじめに古文献を尊重しなくなった。
その端境期の説明が本書には見受けられる。

つまり、昔から信じられて来たことと、考古学的あるいは文献的調査との矛盾解消を無意識にしている感じなのだった。

当時貴族の邸宅建築の定法として、四間の亭の一ト間を再び囲って四畳半として茶礼を行なった。これが茶室四畳半の始原となったのである。
古法の座敷の「四間の亭」とは、九間四面に建てたその中に六間四方を四間に割ってその一ト間が(略)
この一ト間四畳半を学者は学問所と称し、仏家では維摩の方丈室といって寺庵の住職の常住の庵である。この方丈の室で天台宗は摩阿正観の工夫をこらし、真言宗では阿字本不生を考え、禅宗では座禅の工夫に没頭するのである。住持の惣名を方丈と称するのはこの故である。
茶人はこれに台子を飾り又は囲炉裏を構えて賓主への礼賛を正したものである。

東求堂同仁斎からスタートしない。
まずここが珍しい。

しかも方丈が先にあるのではなく、書院造が先にあってそれを割ったのが四畳半で方丈という説明。

これ以前より前の茶書なら、「東山殿と珠光をお茶の始め」として堂々としていたと思う。しかし、本書の時代当たりになると、それ以前からお茶的なものや会所遊び的なものがあったことがあきらかになっていたので、
天真爛漫に「珠光はお茶の開祖。同仁斎は四畳半茶室のはじめ」とは言いづらくなっていたんじゃあるまいか。
そこでこんな感じにあいまいに東山殿が四畳半をはじめたんじゃないかと「誤解できる」ような書き方になったのかもしれない。