茶室考2

次いで東求堂同仁斎。

晩年東山殿は、西京東山に銀閣を営み、東求堂を立てて、小書院を四畳半とし、これが四畳半小座敷を造った鼻祖である。

四畳半でお茶をしていた、の始めは同仁斎ではないが、四畳半の独立座敷の最初はこれである、と著者は言う。うん、反証できない。これより古い四畳半建築の古いものは知られていないもんなぁ。

東求堂のうちにある同仁斎は、四畳半小座敷のはじめではあるが、それは茶室の起源というよりも、そこに茶道の精神的源流を見出すことができる小座敷と考える。
同仁斎には床の間なく唯出し棚即ち付書院があるのみで、これに文房古玩を陳列して目を楽しませる位のもので、これならば書院の床に古画名花を飾って客を饗すれば足りることで、この観点から同仁斎四畳半は唯茶を饗する席に止めるため、この様な構成にしたものと考える。

つまり同仁斎は、大広間にすればいいところをわざわざ小さく作った。それはお茶の精神性の為だ…という話らしい。
なら東求堂の北側に位置するのも精神性の為だと言っちゃえば良かったのに。

なんで同仁斎は東求堂の一部として作られ、なぜ完全な独立茶室として営まれなかったのか?水屋はどうするつもりだったのか?そもそも同仁斎と東求堂を使って、どんなスタイルの茶事が可能なのか?

その辺の疑問が本書を読んで湧いて来た。