茶室考3

その後大黒庵紹鴎になって富貴華麗なのは茶の湯にふさわしくなく、真率且つ幽閑で淡泊こそ真の風趣であると着眼されたものだが、まだ利休居士の侘に及ばす、然しながら茶室の制は先づ地炉を設けて田舎の風趣をうつし、葭棚を作事して台子の礼を省略することによって図の紹鴎四畳半が生れた。

ここでいう葭棚は、図から見ると道庫のようだ。

紹鴎の茶の特徴が「炉を切った」「台子ではない」という特徴があったという。

それにしては、紹鴎死後利休出世以前の茶の湯が、台子が多く風炉の釣り釜などという珍妙なものが多かったのはなぜなのか?

「南坊録」に「紹鴎四畳半ニ炉アリト雖モ未タ炉ノ広狭不定」と、これで紹鴎以前には地炉が無かったことが証明できる。

南坊録が立証に使えた最後の時代…いや、もう無理筋だったんじゃないかな。

とりあえず「炉の大きさにきまりがなかった」という南坊録の主張が正しいとして、こそれは紹鴎以前に炉を切る習慣がなかったことを示す根拠にはならないんじゃなかろうか?

又同書に「休ノ京間四畳半ニテ、紹鴎ヲ御茶申サレシ時ニ、棚ナシニ前後仕廻ハレシ、是レ最初ナリト休ノ物語也(略)
これで見ると、この頃までは台子ではなく、棚も使用したもので、今の様に畳の上に飾ることは、古来かつてその例なく休居士の創意によるものである。
これに随い初めて畳に矩を移すことが考えられ、その上古来からなかった横矩も定められた。

利休が運び点前を創始した可能性は否定できない。ただ、この南坊録の主張だと、紹鴎の存命時/ヤング利休の頃に、すでに利休はさまざまな作意を開始していたことになってしまう。

すると永禄元亀の商人たちのお茶が、利休の作意に従っていないことになってしまう。
つまり利休はさまざまな作意を凝らしながらも30年近く周囲の茶人に無視され続け、ようやく豊臣政権が出来た頃にみんなに作意を理解され、茶の湯名人の名声が高まったことになってしまう。
これじゃ猿の威を借りたみたいじゃないか…