茶室考4
利休四畳半は、その形紹鴎四畳半に似ているが、壁は張付を塗壁に改め、窓を塗残して下地窓を作り、入口は帯戸障子の書院風の構成を改めて、初めて利休創意の躙口としたもので、これは利休がある時、河内牧方を通った折に漁人がその家の小さい入口から出入りしているのを見て初めて好んだものと伝える。
塗壁、下地窓、躙口の創意は利休、ということになっているが、実をいうと私には確信が持てないでいる。
特に躙口が利休の作意なのか判然としない。利休の所に行った宗及、宗湛、久政あたりの記述に躙口が出てこないからである。
山上宗二記には「くぐり木戸」の記述があるから、躙口がなかったわけではなさそうだが、それを言い出すと三畳敷も紹鴎時代からあると書いてあるわけだから、利休以前からあるものなのかもしれない。
なお躙り口の通説は茶道筌蹄の説を採用したもの。淀川の漁師がなんで好き好んで小さいドアの家に住んでいたのかわからん。海女小屋なら理解できんこともないけど。