茶室考5

茶室の平面構成…つまり間取りについて。

茶室としての四畳半に関しては、珠光が四畳半の書院風茶室を営み、次いで紹鴎はこれに倣って、稍々草庵風の手法をこれに加えて所謂「行」の四畳半を造ったのであるが、紹鴎から利休の時代になって、同じ四畳半でもそれが侘草庵として作られるに及んで、急角度に茶の湯自体が侘の草庵の様相に発展していったがために、
四畳半の広さの侘草庵のみでは満足が出来なくなって、小間なるものが出現する様になり、四畳半の形式から、四畳、三畳大目、二畳大目、二畳、一畳大目と順次縮小されるに及んだのである。

判りやすいが、判りやすさの陥穽に落ちてる気がする。

この理論の骨格は、以下の立証されざる「史実」により組み立てられていると思う。

  1. 銀閣寺東求堂同仁斎四畳半は茶室である。
  2. 同仁斎は東山殿に招かれた珠光の作意である。
  3. 将軍家で四畳半を営んだ珠光の四畳半は書院であり真である。
  4. 世界は真と行と草で成り立っている。
  5. 珠光の弟子紹鴎の四畳半は行であり、その弟子利休の四畳半は草である。
  6. 利休が草の四畳半を立案して以降、皆それにも飽き足らず茶室を縮小していった。

どこかが崩れると、この理論はおしまいである。

さて、珠光が四畳半を好み、紹鴎が四畳半を好んだと伝える「山上宗二記」も、

三疊敷ハ紹鴎ノ代マテ道具無侘數寄専一ニス、
一種ニテモ唐物所持ノ人ハ四畳半ニ作ル、
宗易異見アツテ、二十五年以來、紹鴎ノ時ニ同シ、
關白御代ニ當テ十ヶ年ノ内、上下トモ三疊敷、二疊半ヲ用、

と書いている。

紹鴎の時代から三畳敷はあったと書いているし、宗易は紹鴎四畳半を使っていた様にしか読めない。「又隠」が聚楽第の利休四畳半の写しといわれているが、これだって本当か怪しいし。

利休がやったことはドレスコードの破壊で、これにより金持ちが四畳半より狭い茶室を作りやすくなった、という事に過ぎない。これはこれで凄いことだと思うが、上記の理論は破綻していると思う。