茶室考6
吸茶…即ち濃茶の呑み廻しについての考察。
更に「茶道正伝集」によると、古は茶会の法として濃茶を一人前に一服たてにたてたもので、それで人数が多くては茶をたてる時間もかかりその間連客も退屈を感じるので、座敷は八畳敷、六畳敷、四畳半等でも客数は二人或は三人に大体定められていたもので、濃茶が吸茶に成り変わっても客数は同じであって四畳半以下一畳大目でも客数はかわることのない定めが古今の通法とされていた。
天文年間の天王寺屋会記を読んでも、客数はいいとこ4が上限という感じである。
実際亭主として客の全員に気が廻せる人数というのはそんなとこなんじゃないかと思う。
濃茶呑み回しの文献上の初出は(私の知る限り)松屋久政会記天正14年3月2日。
羽柴秀長の茶会で山上宗二出張代点、という秀吉ー利休ラインの文化活動の奈良分室みたいな話。
ただ、これだけだと事実の羅列に過ぎない。
「なぜ、茶室が小型化していった利休時代に吸茶が開始されたか?」
ここを考察しないといけないんじゃないか?
広間でも客を少なくして各服点していたなら、小間ならますますそれが可能なはずである。なのに小間の流行と吸茶の流行は同時に始まった。
であれば、小間だからこそ各服点が難しくなった。そう考えないといけないんじゃないか?
小間で台子を置けなくなって、替茶碗の置場に困った。あるいは狭すぎて半東が出入りしづらく、正客の茶碗を亭主の所に戻し難くなった。なんかその辺に原因がありそうな気がする。