茶室考7

床について。

床の由来や変遷はばっさりオミットする。通り一遍だし。

利休の床の大きさは紹鴎に習って初めは一間の間口であった模様で、一間間口の床を持つ茶室としては、奈良四聖坊利休四畳半や、利休土間付き四畳半(和泉草)、利休もづ野二畳(茶伝集)などに表れている。

茶室研究家が、床の間の大きさ(主に幅)にやたら拘るのが私には理解できていない。
四畳半でも二畳でも一間間口で通用するなら、茶室のサイズと床の幅には関連性無くていいってことなんでは?

紹鴎が安倍仲麿の天原の歌色紙を、利休が定家の小倉色紙を床に掛けたように、紹鴎や利休の選んだ掛物は墨跡中心であった。
かくて茶室の床に約束づけられた信条は、「春は懐紙」・「夏は短尺」・「秋は歌切」・「冬は一行」というのであった。
春は和やかに懐紙などに認められた和歌、夏は涼しき短尺の仮名がき、秋こそ物の哀れを知る歌切、冬は幽玄なる禅句の一行物と四季を通じて書軸中心のことである。

天正9年までの松屋久政会記の記述で、床へ字を掛けた例は29%。
絵の40%に比べると床は掛物が主役とは言えない。

また、初期の茶道は冬でも風炉で釣釜、墨跡といっても印可状とかで季節感と無縁の存在だった。

床へは掛物を掛ける、という先入観と、日本の茶の湯は四季を大事にする、という先入観からの結論だろう。