茶室考14

「待庵考」より。

妙喜庵待庵に就いて比較的詳しく伝えられた記録としては(略)
さて、この記録と同時代─享保、元文、宝暦にかけて大阪遠州流として活躍した青木宗鳳が書き残した一六〇冊に及ぶ膨大な「浪華文庫」(架蔵)を校本として、妙喜庵待庵にスポットを当て、一つの新しい考証として別の視野から「待庵」をとり上げた次第である。

青木宗鳳!

http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20150109
ここでもちょこっと扱ったぞ。

青木宗鳳とは、津田宗及六世弟子(津田宗及─江月和尚─小堀遠州─黒田宗円─山田乗仙─青木宗鳳)で、遠州流の元祖は津田宗及で初めは宗及流と称したが後、一般に之を遠州流と呼称するに至ったものである。

脱線して青木宗鳳について考察する。

青木宗鳳は大阪の人、号を紫雪庵、凡鳥、一統子と称し、二代、三代、四代と継ぎ平井貯月庵に及ぶ所謂大阪遠州流家元であった。
元禄元年に生まれ、明和二年十二月(一七六五)歿。

青木宗鳳は元禄の頃生まれた。

江月宗玩が遠州の師である、というのはなかなか難度の高い設定であるが、大阪ではそっちの方がウケが良かったのかもしれない。

その頃小堀家は近江小室藩かつ伏見代官を代々勤めた家で、宗鳳の死後に汚職がバレて没落する。

でもこのころはかなりの権勢を誇っていた筈だ。

遠州流の流祖を宗及に比定するのは、遠州流に喧嘩を売ってることになりはしなかったんだろうか?

むしろ「喧嘩を売っていた」のかもしれない。

平井貯月庵については、以下で触れたことがある。

http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20141113

江戸中期から明治時代に至るまで、壮大なスケールで遠州流の正統を求め続けていた一派が大阪にいたことになる。
面白いというよりそら恐ろしいわな。