茶室考15

宗鳳による待庵の実見。

宗鳳著「利休茶道百首之註」によれば、
「妙喜庵の床柱の釘は正面に打たる跡ありて中釘なし。但これも近世無事故に貫取たる跡有し也。此所は正面に打ても特に不構所なれば正面に打ちたると見へたり(略)

当初は床の大平に中釘の花入釘はなくて、床柱の正面にのみ花入釘が打ってあった模様で、享保時代には、この正面の花入釘は抜かれてその跡だけで、床柱には北向の普通の花入釘が落掛下端から八寸一分に打ってあった事になる。

床柱に花入釘を抜いた跡がある、というのは判る。
大平に花入釘を新たに打った、というのはどう確認したのだろう?

利休時代迄は、釣船床の内の天井に稲妻の釘を打って、それに鎖をかけて花を入れたもので、妙喜庵の床は塗廻しの天井であるが、これに対して宗鳳の筆録に「拙者見候時分迄は右天井に稲妻を打たる跡をつくろひて有し也。但これ近世天井に釣下 申事無御座候故、つたなき人貫きてつくろひ申物と見へたり」

茶の湯の方法が変わり、有名茶室もそれに合わせて改造されちゃってるわけか。

釘くらいならまだいいが:

尚床柱について、「近世山中氏よりしゆふく致候へは、今は其跡さへなし」と筆録

内容に基いて考えると、宗鳳生存中に即ち宝暦時代迄に、宗鳳が正徳、享保初頭に実見した桐の床柱が、山中氏(妙喜庵にゆかりの人?)によって修復され、現在の北山丸太に取替えられ、床柱正面の釘穴も消滅したものと考える。

山中氏は鴻池だろうか?
ここまで変化しているともうどこがオリジナル部分なのか判ったもんじゃない。

ってことは「待庵から利休の茶を推定する」ことは、現代のわれわれにできるこっちゃないな…。宗鳳の時代にさえもう怪しいもん。