茶室考18

一方庵考より。

武者小路千家四代直斎好一方庵由来書によれば、「大阪十人両替千草屋(平瀬家)三代目、明和三年(一七六五)に浮世小路御霊筋入南側の一廓を買入れ別宅としたる時、折柄京都武者小路千家官休庵にありし <一方庵>茶室を当主一啜斎より買取り移築せり。席は道安囲にて直斎筆一方庵の扁額及常代釜を附属せり。明治三十五年平瀬家整理の折、別宅は一方庵と共に他に譲渡されたり。
その折取壊わされしを再び購いて平瀬家出入の大工棟梁小島文兵衛が保管し置きたるも旧材損じて残りなくなりし頃、昭和四年東京麻布の東久世邸内に一方庵を建立することとなり、直斎筆の一方庵扁額を官休庵愈好斎に模さしめて茶室内外観とも全く旧態を変へず再建したるものなり。(略)

一方庵は半畳の桝床付の四畳茶室…の、一畳を半分に削ったものだという。
なぜ削ったかというと外に井戸があったからだとか。

平瀬家に譲られた後、さらに流出し、この残材をもとに一方庵は東京に再建されたという。

今調べると、どうも杉並の真盛寺という寺にあるっぽいんだが…公式情報がどこにもない。

なんで流出したかというと:

五代一啜斎の代となって間もなく天明八年一月の京都大火災発生、禁裏及二条城を烏有に帰したのであるが、邸内井戸に沿うて作事されていた一方庵は幸にも焼失をまぬがれたものと推測すれば、天明大火によって殆ど焼失した千家を復興するについて、一啜斎は直斎好みの一方庵を大阪千草屋に譲渡して、両替屋平瀬の助力で官休庵家を、大工佐助控絵図の様に復興したものと考えたい。

火災からの復興資金調達という推測である。
千草屋といえば平瀬露香であるが、天明は露香出生の50年は前から武者小路千家と密接な関係があったんですな。

ところが武者小路千家のホームページにこうある。

http://www.mushakouji-senke.or.jp/history/

なかでも、天明の大火によって焼失した直斎好の一方庵を復興するにあたり、構えを改めて「半宝庵」を新しく建てました。

一方庵は焼けたことになっている。


一方庵を再建したのは木津宗詮。

次いで昭和の御代となり、青山御所に茶室建設の儀起り、東久世元内匠頭の斡旋で木津宗詮に設計下命され(略)木津宗詮はこの栄誉として泉の一字を賜り、以後宗泉とした。
(略)
木津宗泉は東久世氏への御礼として、かねて以前から千草屋と関係があることからして、解体されていた一方庵残材を基として、不足分を新規に補足して昭和四年東京麻布の東久世邸内に一方庵を建立したのである。

スポンサーにして家元代行もした平瀬家に買われ、家元預りもした木津宗泉がそれを再建し、愈好斎に扁額を模写させた。愈好斎も師匠である家元宗泉に言われちゃ断れない。

どっちもかなり屈辱的なことなんで、官休庵的にはナイナイしてしまいたかったのかもしんない。