松屋と間取り

では、松屋会記に「間取り」が出てくるのはいつだろうか?

久政会記の永禄十一年(1568年)堺中セウシ松江隆専へ、の会からである。

それまで間取りに興味を示していなかった久政が、この年の堺旅行中に「北向四畳半」などと書き記すようになった。

天文十一年(1542年)、十三年の堺旅行では一切触れていなかったのにである。

ただし、この興味もこの旅行の間だけ。おそらく、堺に茶室ブーム的なものがはじまって、一瞬感化されたんじゃあるまいか?


そして次に久政が茶室について記載するのは天正十一年正月筒井順慶の会である。
そう、昨日書いた会である。

やはり天正十一年ごろから茶の湯は趣味として爛熟を開始したんだろうなぁ。

ちなみに永禄ツアーでは千宗易がどんな間取りでお茶をやっていたのか記載はない。おそらく大したインパクトのない座敷囲いだったんだろうと思う。