天王寺屋と炉のサイズ
では、天王寺屋他会記はどうか?
天王寺屋の他会記に「炉のサイズ」が出てくるのはいつだろうか?
永禄9年までの宗達茶会記にはない。
宗及会記はどうか?
永禄十年
同十月一日朝 錢屋宗仲會 叱 及
炉二尺、アラレカマ、釣テ
ついで以下のもの。
永禄十一年
同十月廿七日朝 山上宗二會 及一人
一宗仲所持之霰釜ノ開也 四寸ノ炉ニコトク
ただ、これは除外してもよさそうだ。宗仲のデカい?霰釜と2尺の超大炉。それを購入した宗二が一尺四寸の炉で普通に使っていたよ、というペア案件だからである。
だが:
同十一月十三日朝 松原紹通會
炉四寸ニ、長釜
この頃から炉のサイズに関する記述が増えて来る。しかも決まって一尺四寸の炉である。
永禄十一年頃から堺では炉に関する改革がはじまっていたのかもしれない。一尺四寸の炉の流行である。
ちなみにこの時期の利休の茶会に「炉四寸」という表記は無い。
なんでやねん?