会記から見る茶室と炉

三つの会記で茶室の間取りと炉のサイズがどう扱われていたか調べてみた。

そこからの結論。

茶室が広間の囲いから、六畳敷の茶室に転換されたのは永禄年間。それが二畳敷などの小間に発展したのは天正十年以前。

炉に関してもりやはり永禄年間から一尺四寸炉への統一が開始されたが、天正になっても全国的に統一されたわけではなさそうである。


堺の「先進的な」環境で、永禄年間に茶の湯がなんらかの発展を遂げはじめたのだと思う。

だが、永禄11年あたりだと紹鴎は10年くらい前に死んでいるし、利休は有名人でも指導的立場でもない。


この時期の茶の湯の変革は、紹鴎や利休の力と関係なく行われたと考えていいのではないか?

むしろ北向道陳とか辻玄哉とかが茶の湯を変革した世代なんではなかろうか?