数寄空間を求めて4

文明八年(一四七六)元旦。
三条西実隆は、前の晩から宿直していた寝殿を出た。

ということで元禄後水尾サロンを離れ、室町へ回帰。
実隆は紹鴎の連歌の師匠である。

夜は暗く、照明も発達していない。
にもかかわらず実隆たちは、その暗い夜を充分に楽しんだようだ。
(略)
実隆が月を踏んで帰った文明七年十二月八日。帰るまで彼は「雑談」に「刻を移」していた。
雑談は現在、「ざつだん」と読んで「とりとめもない話」の意味に使っている。
(略)
「珠光の物語とて、月も雲間のなきは嫌にて候」という『禅鳳雑談』に出てくる有名な言葉がある。村田珠光がこう語ったと能楽師の金春禅鳳が皆に話して聞かせたのは、彼の雑談の中でのことであった。

三条西実隆の日記に有る「雑談」のお話。

夜、よもやま話で盛り上がるのが「雑談」であると著者はいう。

『宗湛日記』の天正十五年三月十八日の雑談は、
日暮れて燈台に火をともし、床の前に置く、(中略)其間に数奇の御雑談の数廿六ヶ条也
とあり、燈台の光がほのかにゆれる中でのことであった。実隆の雑談が夜、時の移るのを忘れてのものであることはすでに見た。
今も行われる夜咄の茶事は、この系譜を踏むものであろう。

夜咄の茶事の元流は雑談にある。

夜咄といえば短檠ゆらめく幽幻な茶事という印象が僕等にはある。

しかし、室町の人間にとっては夜は寝る時間。日が昇れば起きて来て、日が沈めば寝るのである。

そこをわざわざ油を消費してまで起きている事が贅沢で、人を集めてどーでもいー話をするのが一種のインモラルな楽しみであったんじゃなかろうか?

そう思うと夜咄の茶事の印象も、幽幻から贅沢に変わってくるなぁ。