日本茶の湯文化史の新研究2

織部茶の湯について。

織部の茶を「ヒツミ、ヘウケモノ」好みと、その特色を一言でいうのが通説となっている。
それは、「宗湛日記」の慶長四年(一五九九)二月二十八日の条に、「一古田織部殿伏見ニテ、御会、(中略)一、ウス茶ノ時ハ、セト茶碗、ヒツミ候也。ヘウケモノ也」とあるによる。
(略)
確かに織部好みの茶器は(略)利休の茶が深く、広く根付いた社会にあって、その作風は「ヘウケモノ」、すなわち、ふざけたりする者の仕業に見えたに違いない。

あまりにも有名な一条である。
織部焼織部が焼かせたかどうか確証が持てない今、織部の茶風、好みはこの一条から逆算されたものとさえ言っていい気がする。

ところが。

しかしながら、世にいう「ヘウケモノ」について、通説はなぜ、この翌日の茶会の「ヘウケモノ」に触れないのであろうか。
同じく「宗湛日記」の同年二月二十九日昼の記事に、「一宰相殿 伏見ニテ御会、(中略)一水指ハセト、ヒツミ候也。(中略)一茶碗ハ高麗也、コヨミ手也、ヒツム、式ヲ四ツニキサミ候。ヘウゲモノ也」とある。

げぇっ。見飛ばしてた!ほんとだ!

(略)この二つの語が、必ずしも織部の好みを表したのではなく、宗湛一人の独特の鑑賞による表現なのだろうか。あるいは、慶長年間に用いられた茶道具の中に、利休流茶の湯の伝統からみれば「ヒツ」んだもの「ヘウゲモノ」が用いられるようになった字台の特質を表したのかとも考えられる。

博多商人宗湛の元へどの程度の上方文化の流行が届いていたのか不明だが、宗湛日記を読む限りは、グリーンゲイブルズ到着直後のアンシャーリーみたいに、あらゆるものに感動していた感じである。
もしかすると当時の上方の茶の湯最新流行が伝わってなかったのかもしれない。

織部が現代にへうげものとして名を成せたのは、たまたま毛利宰相の前日に茶会を開いていたからで、順序が逆転していればどうなっていたかわかんない、ということだよなぁ、これは…。