日本茶の湯文化史の新研究4

んで庸軒の話。それも、茶風について。

まず「正保二年十月廿一日朝小堀遠州殿御茶被下候留書」(「茶道全集」巻五)から考察しよう。
この留書は庸軒が遠州の茶会に招かれた折の覚書である。
(略)
この茶会に臨席した庸軒は三十二歳であったが、当時すでに遠州の茶会は、諸大名も懇望して招きを乞う至宝的なものであった。
(略)
遠州の茶と共に庸軒の茶に多大な影響を与えたのが、侘び茶に徹した宗旦である。
しかし庸軒の茶がいわゆる「侘び茶」に徹したものではなく、道具茶の要素を多く持っていたことは、すでに先学によって指摘されている。

庸軒の茶は、宗旦の影響はうけていたものの、遠州の影響も受けた大名茶の風のあるものだった。

私も庸軒の茶風が宗旦と遠いと疑義を呈したことがある。
http://d.hatena.ne.jp/plusminusx3/20170212

今まで見てきたように、宗旦の茶が庸軒に及ぼした影響は随所に見られる。
しかし、いわゆる「宗旦四天王」の一人に挙げられるほどに直接に師事したであろうか。
(略)
すなわち、「元伯宗旦文書」所収の文書の中に、「茶湯者一人もよび不申候」と記したものが六通ある。(略)
これによれば、宗旦は晩年世俗の茶人との交わりを可能な限り避けて、茶は専ら五室・沢庵をはじめとする大徳寺の僧侶か、鹿苑寺の鳳林和尚など限定した人々との茶会をもつようにしていた。

そういえば元伯宗旦文書に茶人ってろくに出てこないな。
坊主はいっぱい出てくるのに。

もっぺん宗旦文書読み直した方がいいかも。

一方、「元伯宗旦文書」所収の二百三十九通にのぼる文書に「庸軒」、あるいは庸軒と窺うことのできる文書は見出しえない。
(略)
このように宗旦四天王とは、後世の茶人が創作したものであることはいうまでもない。

ほぼ完全に同意できるが、文をよこすのは相手が遠くにいるからであって、ご近所に住んでいる庸軒に手紙ださないかもしんない、という視点があってもいいと思うのだった。