日本茶の湯文化史の新研究3

宗旦の話。

少庵の子宗旦は、退潮著しい千家の復興を計るべく腐心したことは、「元伯宗旦文書」の多くの「有付」、すなわち息子達の就職に奔走する宗旦の姿から知られることになった。
そして、世にいう「乞食宗旦」の異称が広く喧伝されていたために、清貧に身を任せた超俗の茶人宗旦のイメージは一部訂正を余儀なくされたのである。

私も読んだが、ものすごく宗旦のイメージの崩れる本だった。
よく千家がこんな資料世に出したな…と思えるくらいの。

宗旦研究の基本的な文献は「元伯宗旦文書」を筆頭に、久須美疎庵の「茶話指月集」が続く。
(略)
千宗旦の異称「乞食宗旦」は、「茶話指月集」の「自叙」による所が大きいといわねばならない。

宗旦文書の宗旦は茶話指月集の宗旦ほど超越していない、体の痒い子供の就職先さがしばっかりしている人である。

「茶話指月集」の編まれた元祿八年(一六九五)は(略)
すなわち、形式化した茶の湯に対して利休回帰が叫ばれ、一流一派の確立をめざした多くの茶書が発行された頃である。
久須美疎庵の意図もその例に漏れないのではないのか。

ふむ。でも疎庵に何のメリットが?

次に宗旦─庸軒─疎庵の血縁関係を一瞥してみよう。
(略)
すなわち、疎庵にとって庸軒は義父である。庸軒からみれば久田実房は祖父である。
つまり実房の妻である利休の妹も庸軒の祖母にあたる。
疎庵は自分こそ利休直系であることを表明したかったのである。

なるほど!…ってよく考えたら全然直系じゃない!
でも、直系じゃないからこその屈折としてみればわらんでもないか。

「茶話指月集」の冒頭に「今、宗旦ヨリ利休ノ台子直伝ハ、藤村庸軒一人存命ノ由」としたのも、その故あってこそと考えられるのである。
右のような「茶話指月集」の成立の事情が認められるとすれば、この書物によって成立した宗旦像を鵜呑みにすることは差し控えた方がよい。

この時期の表千家家元は随流斎と覚々斎。つまり久田家からの養子である。
「千家ったって俺と大して変わらんじゃねーの」と思ってもまぁ、仕方ないかな。