日本茶の湯文化史の新研究8

信長と言えば

こうして信長は、茶器の価値を高め、武将が下賜されることを切望するように仕向けた。茶の湯を権威・権力への臣従、および主君からの信頼の証と考えさせた。
茶の湯の政治的利用、いわゆる、世にいう「茶湯政道」のひとつの要素である。

茶の湯御政道」が有名で、大名の茶の湯は許可制であった…というのは定説といっていい。

この信長の「茶湯政道」は、信長の重要な政策として挙げられるのが通例である。
しかしながら、この語は信長自身が使っていたという証拠は定かではない。
「茶湯政道」の語は、実は信長の死後に使われた次の事情から説明されているのである。

だが、この言葉が出た状況が問題だ、と著者は言う。

天正十年(一五八二)十月十八日、秀吉は(略)

上様かさね゛/\、御褒美・御感状にあづかり、其の上、但州金山・御茶道具以外まで取揃へくださる。御茶湯は御政道といへども、我らは免しおかれ、茶湯仕るべしと仰せ出させ候こと、今生後世、忘れがたく存じ候。

本能寺の変の直後に、自分がどんだけ信長に愛されていたか語る文脈か〜。

秀吉はもちろん、諸将がそれまでに茶会を催していないわけではない。
堺の茶人たちはいうまでもない。
つまり茶会が「禁制」であったとは考えられないのである。
茶会を催したといって、罰せられたわけではないのではないか。
では、なぜ秀吉は信長に茶会を許され、涙を流すほどに感激したのだろうか。
先に述べたように、この書状は自己の正統を主張するための宣伝文である。
自分を誇大にアピールするのは、戦国武士としては当然のことであった。

ただ、この手紙の受け手が「御茶湯は御政道」のフレーズに疑問を持ったら困るわけで、
それなりの何かはあったかもしんない。
それが「禁制」といえるほどのものかというと、確かに疑問だけど。