日本茶の湯文化史の新研究7

寛永文化は「桃山の残照」といいう、華麗な文化を想像させる言葉で表現される。
歴史の現象をこうした文学的な言葉で表現するのは、歴史の見方を画一化するおそれがあり、充分留意する必要がある。
しかし、寛永文化桃山文化の残像を持っていたことも頷けるのである。
つまり秀吉によって権威付けられた文化に千利休が抵抗したように、京都の寛永文化人は、徳川幕府の文化統制にそのまま屈しようとしなかったのである。

著者は、寛永文化を、それも京都の寛永文化サロンを、レベルズとして捉えている。
これは大変面白い考え方だと思う。

後水尾上皇に、近衛信尹に、光悦にと、タダモノではない感のある面子がそこにはいるわけだし…。

こうしてみると、昭乗がよくいわれるように、「寛永文化サロン」あるいは「サークル」のような親睦団体の一員であった、というような捉え方にはいささか疑問を持つのも不自然ではないであろう。

昭乗には二条城改築にあたり、徳川義直の家臣とやりとりした手紙が残っており、どうも近衛信尋徳川義直の仲介をしたらしい…と取れるものがあるという。

その情報の収集力にも驚嘆するが、人的関係が、既に見たように短にサロン形成のためだけでなく、こうした公家と武家との仲介を果たすに恰好の条件を、昭乗も石清水八幡も持っていたということであろう。
とすれば昭乗が、一般的な多くの芸能に堪能な社交的僧侶という見方だけでは、全く理解不足であるといわざるを得ない。

学芸に秀でた僧侶で外交に力を発揮する…というのは桃山時代の五山の僧侶になら普通にあったことである。

五山の僧侶ならできることが石清水八幡の僧侶にできないとはいえない。
ましてや八幡は武家にとって重要な神なのだ。


その視点だと寛永サロンも結構きなくさい感じになる。でもこれだと遠州が伏見に配された理由が文化的抑圧になってしまう。
なにしろ遠州は王朝趣味を武家のものにしてしまったわけなのだから。