日本茶の湯文化史の新研究12

難しい難しいと言っていても話にならないので、一個づつ考えていくか。
まずは「こびた」について。

「宗二記」の利休秘伝の十ヶ条の冒頭の語は「コヒタ」である。
利休が最も重視した言葉、精神であったとも考えられる。
しかしながら「コヒタ」が現代用語の「媚びた」と同意語であったと考えると、茶の精神とは程遠いものになってしまう。

まさかそんな筈はないだろう。
「媚びたる」だと「さばしたるはあしし」に近いものになってしまう。

なのでここは「古美た」「古びた」「恋た」みたいな別の漢字があたるんじゃねーの?と最初に思った。

「こびたる」美の用例の時代的に早い例としては「紹鴎遺文 池永宗作への手紙」(弘治元年<一五五五>成立とされる)が挙げられる。

一 庭ノ垣ハ、色〃ニスルト云トモ、土カベ尤ヨシ、ヨイコロノ小石ヲソエテスルナリ、水ヲ打テハ幽ニ石アラワレテコヒルナリ

(略)
壁に少し水を打つと、壁に含まれた小石が水に濡れて壁とは異なった色となって「幽やかに表われて」くる。
(略)
すなわち、「媚びる」の現代的用法としての「歓心を買うために、艶めかしい態度をする」に似た意味を含んでいると考える。

でも壁土の小石のきらめきに「古美た」「古びた」「恋た」なんてのは該当しなさそうだ。

「宗及他会記」は永禄十二年(一五六九)二月の紅屋宗陽の茶会の様子を次のように記して、宗及の茶道具への価値判断の規準を示している。

床かたつき、始而見申也、墨跡モ始而一覧候、右肩衝ナリ一段ヨク候、コロモヨシ、中ヨリハ少カタニ見ヘタリ、薬之色、絵ヤウナトアシク候、
土ハ中也、惣別、コヒヌ壺也

「この茶会で用いられた肩衝は、形は大変良い。特に全体の大きさが手ごろで、中位よりも少し小型である。
薬の色や描かれた絵模様は余り良くない。土もまあまあである」といい、全体として「コヒヌ」壺であると感想を述べている。
ここでいう「こびた」の意味は明確ではないが、絵や土についてはむしろ「アシク」として批判している。この「アシク」の意味も明確ではないが、「絵ヤウナトヨク候」ならば「惣別、コビタ壺」になると考えることもできる。

ここでの「こひぬ」は「アピール不足」を指摘されている様にも思える。

「烏鼠集第四巻」の次の文章は、真・行・草の三段階の茶の湯の体系を説いて、この中で「こび\について触れていて我々に多くの示唆を与えてくれる。

一茶湯は若輩、初心の時はいかにも初心に、あるかかりに二、三年も同様にしてとはせぬ、其後功者の指南をうけ少しつつ次第に上の重を習て、それをたしなみ懃して、功人て漸年もかさなり、少し嬌事あいましえへきか

(略)
すなわち「初心」が「真」の心得で修業をし、熟練者は「上の重」、すなわち「行」の茶を学び、ついに修業が成って名人の境地に近づいた者は「こび」、すなわち「草」の心境で茶の湯の世界に浸るべきであるというのである。

真行草との関連で考えるとむしろ判り難くなる気がする。むしろここでの「媚び」は「おもしろい趣向」を指している気がする。

道具との話もあわせて考えると、「コヒタ」は「(抑制された?)アピールのある趣向を凝らすこと」を意味するんではなかろうか?