日本茶の湯文化史の新研究13

次に「異風」について。

前出の「津田宗及他会記」の「鶴嘴の花瓶」は千利休の茶会に用いられた茶器として、宗及にとっても極めて強く印象に残った茶器であったことが、彼の詳しい批評からも窺われた。宗及のこの批評の後半に、

此花びん、惣別、こびたる物にてハなく候、いふうなるハかりにて候、うつくしくはなやかに、いふうニ見え申し候、乍去、よわきやうニハ見え不申候

と述べている。

つまり:

  1. 媚びてはいない
  2. 異風である。
  3. うつくしく、はなやかである。
  4. 弱くはない。

という花瓶だったわけか。

先述したように、この花瓶は「こびたる」ものではなく、「真・行・草」の境界の内の「草」の境地に至らない花瓶であると宗及は批評した。

私は美意識と真行草を関連付けるのには反対なのだ。理由は追って述べる。

すなわち、ここの「異風」は座敷に関して茶会の亭主の人柄に相応した趣向を演出することが「異風」でないこと、すなわち「正風」体になるのである。

異風の反対が正風になるのは理解できる。
だが利休の鶴嘴の花瓶がどう異風だったかは理解できない。

利休のこの鶴嘴の花瓶は現代に伝わっていないから推測のよすががない…。

右のように、「異風」は「草」の境地、「異風」でないのは「真」の境地であるといってよい。
(略)
したがって、先に述べた「こびた」興趣もまた「異風」の感興の同種の表現であったと考えてよいのである。

なんでも真行草に結びつけるものだから、最初と矛盾ができている。

「こびた」が「異風」の同種の表現であったなら「こびたる物にてハなく候、いふうなるハかりにて候」の説明がつかなくなってしまう。

微妙かつ多種に及ぶ美意識を、たった三つしかない真行草に転写するものだから、写像がおかしくなってしまうのだと思う。