日本茶の湯文化史の新研究18

「ぬるき」について。

茶道具の鑑賞に多く使われた用語は「ぬるき」である。
いうでもなく「ぬるき」は茶道具や、道具立てにおいて、心の至らないこと、未熟な状態を指していることは一応うなずける。

「一応」とわざわざ書く以上は、掘り下げるのである。

天王寺屋会記」の「宗及他会記」永禄十二年(一五六九)正月九日、堺の商人油屋常祐の屋敷の茶会に招かれた津田宗及は、使用された「紹滴肩衝」の拝見の記事の中で「惣別 かたつき ぬるきかたつきにて候」と批判的な結論を出している。
(略)
「紹滴肩衝」の宗及の批判文のうち、この肩衝の長所として「なり(形─以下引用中の括弧内は私注)」「ころ(大きさ)」「口のつくり」などを「よし」としている。
一方、この茶器への批判は次のように極めて多い。まず土は浅黄に少し紫の入った色で「おもハしくもなき色也」で、「衣文もあしく候。すきかた(数寄方)にはあまりほめぬつほ(壺)と存じ候」としている。
(略)
結果的にこの肩衝は「ぬるきかたつきにて候」ということになる。

この紹滴肩衝の拝見記事の中は重複部分があり、そっちの方が面白い。

此壺一段コヒテ(媚)不見候、
又タウケ(道化)タル心モナシ、
何トモナクヨキ壺ナリ、
茶湯方ニ一入ニハ不見候、
初心ナルコゝロハナシ、
フミハツシ(踏外)面白ノアチハナシ

何ともなくいい壺なんだけど、アピールも足らないし、変わっても無いし、茶道具としてはすごいって感じじゃない。基本に忠実でもないし、アバンギャルドな楽しみもない。

これはもう「ぬるい」というしかないではないか。

すなわち、ここでは「紹滴肩衝」や宗恵の「高麗茶碗」を「ぬるい」としたのは「わび数寄」の精神の未熟なことを指摘したものと考えてよい。

いや、ぬるいは「いろんな方向に突出したトコがない」であって、侘び数寄の方向性にそっているかどうかは関係ないんじゃないか?
道具茶としてぬるいとか、式正としてぬるいとかもあっていいんじゃない?

ここまでの美意識を総括できるのに、そっちを使わずに別の重複部分を解説し、謎の真行草に取り込もうとするのはこの著者の悪いところだと思うの。