日本茶の湯文化史の新研究22

宗及の時代の前後の茶人はこの「美しき」ものの同義語として、むしろ「きれい」の語を用いている方が多い。
しかしながら宗及は「きれい」を全く使用していない。

ということで「きれい」について。

元亀三年(一五七二)奥書の「烏鼠集四巻書」(「茶道文化研究」第一輯、今日庵文庫)に「一、名物一種もなき人は、一段きれいにさびきって珍敷、(略)
(略)
とあって、後年の「寂び」の新しい観念としての「きれいさび」の原型が存在すると考えられる。

宗及前後の茶人は「きれい」という語を使用している。
それも、非常に精神的な用語として。
つまり「和敬清寂」の「清」を意味する言葉として。

こうした心の「きれい」の精神は具体的には「主客ノ心正常潔白」(「南方録」)、「心ノ掃除」(「和泉草」)(略)
(略)
これらの江戸中期の茶人達にとって、「茶の湯」は「源流茶話」にあるように精神修養のための倫理感の強い「茶道」としてその認識が深まり、芸道としての「茶の湯」の根本的な変革が起きてきたことを改めて確認する必要があるだろう。

たしかにこういう用法の中で「きれい」を使うことはできても「うつくしい」はないか。

ってことは宗及は「きれい」な精神性を他人の茶道具に求めていなかったってこと?