南方録と立花実山9

実山は主君光之の側勤めであったため、参勤にも毎回供奉しており、その回数は「梵字艸」にも記しているとおり合計三十八回を数えている。
またしばしば特別に暇をもらったり、参勤の前後に許可を得て別行動をとっている。
そのような機会を利用して書画・茶道・和歌に励むこともできたのであろう。

実山は立場を利用して、参勤交代の途中京都に寄り道を繰り返していたらしい。
エグゼクティブならではのやんちゃである。

翌元禄十五年には、実山は二月二十七日に福岡を発ち、明石から陸路を難波に至り、難波から船で淀川を上っている。
梵字艸」に列記された「晴事」、すなわち晴れがましい思い出の中に次のような茶道に関する記述がある。

○山崎に至て妙喜庵二畳の茶室に再び入ル、かつ炉ぶち(縁)寄付せし事
○千宗安亭に茶話、利休堂に像を礼し茶を供ずる事

その過程で、千家にも出入りしていたらしい。

…。


実山が南方録を手に入れたのが貞享4(1687年)の事である。
元禄15年は1702年。

裏千家の利休堂まで行って、南方録の話をした、という形跡が一切無い。
その「再発見」は自分の手柄の筈なのに。

南方録は千家に見せるようなものではなかった。
南方録贋作説の状況証拠の一つではあるな。