南方録

何回か扱ったことのある南方録。偽書である、とか、そういったいろいろを忘れて、茶の湯思想書として肯定的に読み直してみる。

当然、覚書から。

○宗易ある時、集雲庵にて茶湯物語ありしに、茶湯は臺子を根本とすることなれども、心の至る所は、草の小座敷にしくことなしと常/\の給ふハ、いか樣の子細か候と申、

宗啓の利休への質問から始まる本書。
この構成がすばらしい。
宗啓が利休にこういった質問ができる人間である、というのが分かる。

内容も濃密である。
書院の茶に対する侘び茶の優越も判れば、侘び茶に対する書院の茶の原理性も判る。
草はいいよね。本来は真が元だけど…と言っているだけなのに。

ここの「心の至る所は」ってのもまた素晴らしい。
この「心の至る所」が、思想書としての南方録を印象づける一言である。
身のカネとかそういう所作のレベルを超え、せせこましいお作法の本でなくしている。
むしろ「五輪書」とかの武術秘伝書に近い気がする。

宗易の云、小座敷の茶の湯は、第一佛法を以て修業得度する事也、家居の結構、食事の珍味を樂とするは俗世の事也、家ハもらぬほど、食事ハ飢えぬほどにてたる事也、是佛の教、茶の湯の本意也、

「家は漏らぬほど、食事は飢えぬほど」また名文句である。

小座敷は方丈であり、茶の湯を仏門の修業のように扱い、見世物めいた茶の湯を明確に排除している。

ただこれが宗啓の「台子が根本」という質問への回答になっているかはちょっと疑問があるが。

水を運び、薪をとり、湯をわかし、茶をたてゝ、佛にそなへ、人にもほどこし、吾ものむ、花をたて香をたく、ミな/\佛祖の行ひのあとを學ぶ也、
なを委しくハわ僧の明めにあるべしとの給ふ、

仏道の修業というより、方丈での出家生活のような茶の湯。水を運び/湯をわかし、で後の三炭三露あたりへの伏線にもなっている。

「わ僧の明めにあるべし」というフレーズのいやったらしさを消すだけの爽やかさがこの文にはあると思う。